2011年01月14日

必生 闘う仏教

インド仏教の指導者、佐々井秀嶺(インド名:アーリア・ナーガルジュナ)さんの語りおろし。
この方に関する本はもう何冊も読んでいますが、どれを読んでも、本当に凄い。
この本は、その中でも読みやすく、一番最初に読むには、これが良いかと思います。


必生 闘う仏教 (集英社新書)



目次
第1章 仏教との出会い(発心
世紀の苦悩児 ほか)
第2章 大楽金剛(ナグプール
アンベードカル ほか)
第3章 闘う仏教(闘う仏教とは
インド国籍を取る ほか)
第4章 必生(四十四年ぶりの帰国
高尾の緑 ほか)



闘う仏教とは
"闘う"などというと日本の方は、なにを物騒な、と感じるかも知れませんが、現実の世界は「瞑想」に浸る時間を許すほど安閑としてはいません。いまだに人口の八割近くが貧困層ともいわれるインドには、人間としての尊厳を踏みにじられた人がたくさんいます。
その人達が今この瞬間にも抑圧され迫害を受け、傷つけられ、時には命まで奪われているのです。
もちろん、仏教は"不殺生"が基本ですから、その闘いは非暴力主義に立ちます。ですが、不当な暴力を前にしてただそれを受け入れるだけでは、相手の殺生罪を容認したことになる。そうならないためには、ありとあらゆる手段、例えば言論活動を始め、署名運動、抗議デモ、座り込みなど、非暴力の闘争を展開する。それが、不殺生の闘いなのです。
しかも、ヒンドゥー教で人間として認められない最下層民衆に「右の頬を打たれたら左を」などといっていたら、それこそ虫ケラのように踏み潰されてしまいます。ですから、非暴力を貫くためには、自己犠牲を含む必要最小限の力の行使をみずから選択しなければならない場合があることも、覚悟しておかなければなりません。
これを前章の"大楽金剛"になぞらえていうなら、「大怒」ということができるかも知しんれません。怒りは、仏教では"瞋恚"と呼ばれ、人間の心を蝕む"三毒"の一つに数えられますが、それはいわば小欲、小愛、小楽、小我と同じで、自分本位の感情を指します。
一方、他者の幸福を守るため、人々を苦しみや悲しみから解放するための怒りというものがあります。人間の小さな自我に根差した怒りを超えた、慈悲に基づく大きな怒り。これは『理趣経』においても"瞋無戯論性"あるいは"忿怒金剛性"という教えによって肯定されています。慈悲心による"金剛の大怒"。それが、闘う仏教の精神なのです。



放っておいてもいつか必ず人間は死ぬ、ということです。だから死に執着してはいけないのだ、と。
死ぬのが当たり前ならば、生きていることのほうが逆にめずらしいのです。すなわち、生きていること自体が奇蹟であり、個性なのです。死は、没個性。かつて自殺未遂をした私が青函連絡船の乗務員からいわれたように、どのみち死ぬ身なら一度死んだ気になればなんだってできるはずです。必ず生きなければなりません。それが、あとで触れます「必生」の精神です。この世に人間として生まれてきた、こんな千載一遇の好機がまたとあろうはずがありません。
もちろん、多くの自殺者を出してしまう日本の政治や経済の仕組み、社会の在り方にも問題があると思います。しかし、だからこそ国民の皆さんが必生の気迫で立ち上がり、不義不正をただして国を立て直していくのだ、という熱と信念が重要なのではないでしょうか。



みんな苦しんで生きている。
繰り返しますが、はたから幸せに見えるような人、十界の上の段階へ達しているように見える人でも、どこかで本人は苦しんでいる。
苦行とは、つまり人生とは、自己との闘いです。他人がどう評価するかは、二の次。むしろ闘いを捨てた生き方こそ批判に晒されるべきではないでしょうか。
人生はすべてが修行道場なのです。そしてその行法は、悩むこと。もちろん、張り詰めた糸は切れやすいものですから、たまには休憩も必要だとは思います。ですが、自分の苦悩から目を逸らすことなく、逃げず、大いに悪戦苦闘し、修行を深めていくことです。
苦悩を離れて人生無し。悩み無き人生は、無、なのです。



必生の立場は、なにがなんでもやり通す。辛くても悔しくても歯を食いしばりひたすら生き抜いていく。もし地に倒れたなら泥をすすってでも、ただ生き抜く、と。
必死の発想には限度や終わりがある一方で、必生には、それがない。
死ぬのが当たり前なら、死んでも生きるのが必生です。



立ち上かる仏教
このところ日本では、瞑想やヨーガがちょっとしたブームになっているそうですが、それはそれで、大変結構なことだと思います。
しかし、ぜひとも理解していただきたい点があります。
瞑想三昧に浸るには、それを許す環境があってはじめて可能となるということを、よくよく認識していただきたいのです。
(中略)
瞑想ブームもよろしいですが、座ってメディテーションをするだけではなく、その瞑想で得たものを、今現に泣いている人達のためどのように生かすのかを、なにとぞお考えいただきたいと思います。
座ってばかりでは、慈悲を眠らせることになります。そうなれば、不義不正に屈したのも同然。もはや仏教ではなくなります。
(中略)
座禅や瞑想は、立ち上がってからなにをするか、そのためにあると思います。
そしてまた、社会的実践の支えとなるべき「瞑想」は、時も場所も形式も選ばないはずです。いうなればこの人生すべてが、瞑想なのではないでしょうか。生きる姿勢そのものがヨーガのアーサナ(座法)であり、座禅であり、呼吸や会話が念仏であり題目であり、現実社会で慈悲を実践していくことが仏道である、と私は考えます。


宗教は人を救わないと考えてしまう人が多いと思いますが、こんな本をきっかけに、いろいろ考えてみるのも良いのではないだろうか?

佐々井秀嶺(インド名:アーリア・ナーガルジュナ)さんは、日本ではあまり知られていないように思います。
こんなにも凄い人がいることを、そしてそれが日本で生まれ育った人だということを、より多くの人に知って欲しいと思います。

<参考URI>
NONFIX : 男一代菩薩道〜インド仏教の頂点に立つ男〜 - フジテレビ
ビームラーオ・アンベードカル - Wikipedia
佐々井秀嶺 - Wikipedia

<blog内関連記事>
To Be Freedom@読書三昧: 男一代菩薩道―インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺
To Be Freedom@読書三昧: アンベードカルの生涯
To Be Freedom@読書三昧: ブッダとそのダンマ
To Be Freedom@読書三昧: 破天。
To Be Freedom@読書三昧: 不可触民の道
To Be Freedom@読書三昧: 不可触民―もうひとつのインド




posted by わけい at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック