2012年12月29日

世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス(鹿野 治助 (編集))



「エピクテートス―ストア哲学入門(鹿野 治助)」を読んで、ストア哲学をもうちょっと深く知りたいと思い、読んでみました。

「エピクテートス―ストア哲学入門(鹿野 治助)」でほとんどのことが網羅されているし、この本の内容には、何か所も重複箇所があるので、ただ知るという意味では、「エピクテートス―ストア哲学入門(鹿野 治助)」で十二分かと思います。

それでも、興味を持った本は、できるだけ原著で読んでみるべきかと思います。
とはいえ、ギリシャ語はさすがに読めないので、この本を手に取ってみた次第です。




ストア哲学の根幹を指し示すなら、この箇所かな。

P361
ふつうの人の立場と哲学者の立場

ふつうの人と愛智者との第一のちがいは、一方が、「ああ、私は子どもや兄弟のせいで不仕合せだ、ああ、親父のせいで不仕合せだというが、他方は、もし強いて「ああ、私は不仕合せだ」といわざるをえないとすれ
ば、じっと考えてから、「私のせいで」というのである。なぜなら、意志が自分自身を妨げたり、害したりするのでなければ、意志外のものは、なにも意志を妨げたり、害したりすることはできないからだ。それで、わしら自身もこのことに思いをよせて、思いどおりにいかないとき、自分たちを責めて、混乱動揺の原因が思惑以外のなにものでもないと思う程度になれば、八百万の神々にかけてきみたちに誓うが、わしらは進歩したというものだ。
だが現にわしらは、はじめから他の道を進んだのである。早い話が、わしらがまだ子どもであったとき、もし
わしらがあんぐり口をあいて歩いたためつまずいたならば、乳母はわしらを叱らないで石を打ったのだ。いったい石はなにをしたというのか。きみの子どものばかさのために、石はよけねばならなかったのか。また、わしらが風呂から帰ってきて食うものが見つからないと、補導係はわしらの欲望を鎮めないで、料理人をぶんなぐるのだ。きみ、わしらはきみを料理人の補導係としておいたのではあるまい。いや、わしらの子どもの補導係として置いたのだ。子どもを正してやるがいい、子どものためになることをするがいい。
同じようなわけで、わしらは成長はしても、子どものように見えるのだ。というのは、音楽のわからない者は、音楽においては子どもであり、読み書きのできない者は、読み書きにおいては子どもであり、教養のない者は、人生においては子どもだからである。

またあるいは、この箇所だろうか。

P387
人々を不安にするものは、事柄ではなくて、事柄についての思惑だ。たとえば、死はなんら恐ろしいものではない、そうでなかったら、ソクラテスにもそう思われただろうから。いや、死は恐ろしいという死についての思惑、それが恐ろしいものなのだ。だkら、私たちが妨げられたり、不安にさせられたり、悲しまされたりするときは、けっして他人をではなく、自分たち、つまり自分たち自身の思惑を責めようではないか。自分自身不幸なばあいに、他の人たちを非難するのは、無教養な者のすることで、自分自身を非難するのは、教養の初心者のすること、そして他人をも自分をも非難しないのは、教養のできた者のすることだ。


世界は、自分の心次第だということ、だから心をしっかり育てようってことだと思います。

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posted by わけい at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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