2016年03月22日

サグラダ・ファミリア: ガウディとの対話(外尾 悦郎 (著), 宮崎 真紀 (翻訳))

外尾悦郎さんの講演を聴いたことがきっかけで手に取ってみました。
写真が大半ですが、主任彫刻家として語られる想いも、深いものがあります。
一生に一度は、直接見てみたいですね〜☆

サグラダ・ファミリア: ガウディとの対話




目次
仕事とは探究である
未来とニヒリズム
ガウディとの出会い
葉と果実
ロザリオの間とプーチさん
世代を超える作品
ハープの天使を完成させるのは誰か?
職業
ペリカン
合唱する子どもたち〔ほか〕

印象に残った個所を引用

P7
石を彫りたい。それだけを願って渡ったヨーロッパでわたしをわしづかみしたのは、サグラダ・ファミリアの門のあたりに無造作に積まれていた石の山でした。1978年初夏のことです。以来、人生の大半を聖堂で過ごしてきました。
多くの仲間との幸福な出会いに恵まれ、いつのまにかたくさんの仕事をしてきましたが、わたしがますます強く思うようになってきたことは、30年以上前の夏からずっと自分が探してきた石は、じつは自分自身であったのだということです。わたしや、わたしの仲間たちは確かに聖堂の彫刻を長年つくってきましたが、本当は聖堂がわたしたちをつくってくれたのではないか。そしてガウディは、聖堂で働くわたしたちを含めた世界じゅうの人々を、 より高い、より広い場所に引き上げてくれる、そういうサグラグ ・ファミリアをつくることを当初から望んでいたのだと思うのです。


P12
建築物の設計は、ある種の祈りです。石を穿ち、すぐれた彫刻作品をつくろうとすることも、彫刻家独自の祈りの方法です。医者は命を救うために検査をし、薬を処方し、手術をしますが、それも医者の祈りの手段なのです。どんな職業でも、祈らない者によい仕事はできません。
人間は、両手に抱えきれないほどたくさんのものを持っていると思いこんでいます。全世界を、いや宇宙さえも所有していると。しかし本当は、この世に存在するものはすべて、恵み与えられたものです。自動車、飛行機、コンピュ
ータなど、じつに多くの品々を発明してきたわたしたちは、人間は創造者であり、世界の主だと思っていますが、実際には、わたしたちの暮らしを大きく左右するものは自然なのです。太陽・水、空気、大地……。それらすべては、本
当は与えられたものだという真実から、わたしたちは目を背けようとしています。
わたしが石を刻む過程・仕事をする工程は、それ自体が探究です。これまでわたしは数多くの碑や作品をつくってきました......しかし、自分にとっていちばん大事なことは、一つひとつの作品の制作過程で何を学んだかということです。そうした経験の積み重ねが、いまのわたしを形づくってくれたと言えます。
いま彫っているものが本当に最善なものか、制作中に確信が持てたことなど 一度もありません。しかし、よりよいものをつくろうと試行錯誤を繰り返すこ とこそ、わたしたちが自由である所以なのではないでしょうか。 最近わたしはこう思うようになりました一ー自分がいかに小さな存在であるかと思えれば思えるほど、いっそう幸福になれる、と。以前は、石の前で自分 にこう言い聞かせたものです。「わたしはこの一片の石くれを、芸術作品に生まれ変わらせる彫刻家なれのだ」と。完全に間違えていました。命令を下すのは石であり、わたしはそれに従う下僕にすぎないのです。そうでなければ、新しい何かを生みだすことはけっしてできないでしょう。


P14
親がいないのにディズニーランドに行っても、子どもは苦痛です。大人も同じなのです。わたしたちは、行きたければどこへでも好きなところに行けると思っています。しかし「ひとりだけでディズニーランドに行きたい」と思って行ったとしても、親がいなければ、たとえそこがどんな楽園であろうとも、悲しく、不安になるだけでしょう。恨みさえ湧いてくるかもしれません。
子どもであるわたしたちは、社会もしくは世界といってもよい親、つまり<われらが父>につねに手を引いてもらう必要があります。そうして初めてやりたいことを満喫し、すべての自由と喜びを享受できるのです。親さえそばにいてくれれば、怖いものはないのですから。しかしひとたび<われらが父>を見失えば、あたりは恐ろしい闇と化し、泣きじゃくるほかなくなるのです。


P19
わたしが本当に心配しているのは、ニヒリズムの問題です。ニヒリズムはすべてに対する関心を捨て、他者への愛、自分への愛さえも捨ててしまいます。世界などそんなものだと諦めて、何の努力もしません。愛を断念し、向上心を放棄します。
わたしたちは不完全な存在ですが、それでもユートピアをめざさなければなりません。たとえそれが実在しないとしても、そうわかっていても、理想郷を求めもが くこと、これこそが人間の強みなのです。ユートピアを求める気持ち
が強いほど、わたしたちはより人間的になれるのです。ニヒリストは正反対に考えます。彼らは世界を狭量な自分の器に合わせ、矮小化しようとします。
わたしたちには、たとえ自分はちっぽけな存在でも、巨大な現実に立ち向かい、少しでも進歩するために戦おうとする力があります。


P62
彼の傑出している点は、新しいものをつくりだす才能だけに留まらず、100年、200年先にも自らの制作システムを伝え、実現させる力にあります。魔法としか言いようがありません。どの国から来た人でも、どの時代の人でも、彼のコミュニケーションシステム、すなわちシンプルな数学と彼のデザイン姿勢を学べば、彼と同じように制作できる。ガウディのデザイン姿勢 ーー彼の数ある才能のなかでも最も重要なものです


P98
正しい疑問
人々が何より求めているものは、答えです。答えがなければ、成長はありません。 しかし実際には、答えそのものより、正しい疑問を持つことが重要なのです。正しい疑問を持った瞬間、すでにあなたは成長を始めています。答えを見つける過程は、畑に種をまく作業と似ています。まず土を耕し、肥料を施します。 さらに整地し、種まきの準備万端となった土は、黒 々と美しく、湿り気も帯び、強さとやさしさを兼ね備えています。よい土壌の条件とは何でしょう? どんな種をまいてもすくすくと育つことです。
自然は寛大で気前がよく、人間は卑小な存在です。人間には、多くの恵みを与えてくれる大地ほどの力はありません。ガウディは言っています。「人間は何も創造できない。できるのは、自然を再発見することだけだ。もし創造が可能だとすれば、それはやはり自然を耕すことから始まる (耕す cultivarことで文化culturaが生まれる)」と。耕すとは、どんな種でも元気に芽が出るように土を起こし、雑草をとり、水を撒く......そうした行為のすべてであり、耕す
ことが文化や教育の源なのです。いま文化と言えば、音楽や文学、舞踏、映画などを思い浮かべる人がほとんどでしょう。でも、本質は違うのです。
「耕す」とは、何かを発見し、生まれるのを待つことです。わたしたちにできるのは、種が芽を出すのを手助けする程度のことです。だからこそ、わたしたちは土を耕さなければならない。すなわち、疑問を持つということです。疑問を持たず、自然に従おうともしなければ、実はみのりません。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
<参考リンク>
外尾悦郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B0%BE%E6%82%A6%E9%83%8E

<To Be Freedom@読書三昧 blog内関連記事>
To Be Freedom@読書三昧: マリアの涙(ピーター・シャビエル) http://dokusho-kiroku.seesaa.net/article/319702865.html

posted by わけい at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/435475280

この記事へのトラックバック