2016年06月12日

人間は料理をする・上: 火と水(マイケル・ポーラン (著), 野中 香方子 (翻訳))

料理のプロの人の本ではない。
普通の人が、素朴に、でも実直に料理と向き合った結果、見えてきた、人間の本質。。

人間は料理をする・上: 火と水




目次
序論――なぜ、料理か? 第一部 火――炎の創造物 (火を使う料理[バーベキュー]) 第二部 水――七つのステップのレシピ(水を使う料理[煮込み料理])

印象に残った個所を引用。
P3
アメリカの社会は、この問題について少なくとも二つの考え方を持つようだ。サーベイ・リサーチによると、アメリカ人は年々料理をする時間が減り、調理ずみの食品を買うようになっているそうだ。食事の準備に費やす時間は、わたしが夕飯のしたくをする母を見ていた六〇年代半ばに比べると半減し、一日わずか二七分ほどになった(ほかの国はアメリカよりましだが、この傾向は世界的なものだ)。その一方で、わたしたちは料理についてより多く語り、料理番組を見たり、料理に関する記事を読んだり、オープンキッチンのレストランへ出かけたりするようになった。プロの料理人が話題を集め、中にはスポーツ選手や映画スター並みの有名人までいる。多くの人は料理するのを面倒だと思っているようだが、どういうわけか料理自体は・世間の関心を集める一種の娯楽になってきた。二七分間は、「トップ・シェフ」や「ザ・ネクスト・フード・ネットワーク・ スター」[アメリカの料理番組]の一回分より短い。つまり、人々は料理するより、料理番組を見
るのに、より長い時間を費やしているのだ。いくら熱心に見ても、腹が満たされるわけではない
のだが。
これはどう考えてもおかしい。わたしたちは今では靴下を繕ったりしなくなったし、車のオイル交換も人まかせにするようになった。そうした家庭内の仕事については、嬉々として外部に委託し、それを再現する番組を見たり、本を読んだりはしない。しかし、どういうわけか料理とな
ると話は違ってくる。その作業、あるいはプロセスには、感情や精神に強く訴える力があり、わたしたちはその魅力から逃れられないのではないだろうか。実際わたしが・料理についてもっと真剣に考えるべきではないかと気づいたのは、テレビの料理番組を長々と見た後のことだった。


P10
当然ながら、料理する、しないを軸とする見方には異論があり、少々、但し書きが必要だろう。
まず、大半の人にとって、その選択は先に述べたほど単純なものではない。つまり、一から作る家庭料理VS工場で作られたファストフード、というわけではないのだ。ほとんどの人は、その二極間のどこかを選び、その位置は曜日、状況、気分によって絶えず変わる。夕食だからと最初か
ら料理をするかもしれないし、外食したり配達を頼んだり、「少しばかり」料理するかもしれない。この最後の選択肢には、さまざまな加工食品を活用することも含まれる。袋詰めの冷凍ホウレン
ソウ、サケの缶詰、出来合いのラビオリなど、近くの店で作ったものもあれば、地球の反対側で加工されたものもある。一〇〇年ほど前に、包装された食品が初めてキッチンに持ちこまれて以
来、「料理」にかける手間には幅が生じた(そういうわけで、わたしは出来合いのラビオリにセージバターソースをかけたものも料理と呼んでいるのだ)。そしてわたしたちの大半は、一週間のうちに、その幅のピンからキリまでを経験する。しかし近年では、多くの人が夕食をその「キリ」で済ますようになった。つまり、調理の大半を産業に頼り、出来合いのものをただ温め直して食べるだけになったのだ。


P26
料理は、現代の暮らしでは希少になった機会-自分の力で働き、食を提供することで人を支え、自分も支えられるという稀な機会-をもたらす。これが「生活する」ということでなければ、何がそうなのだろう。経済的に考えれば、アマチュアが料理するのは時間の最も有効な使い方ではないかもしれないが、人間の感情で計れば、それは素晴らしいことだ。愛する人のために、栄養のあるものを用意することほど、利己的でなく、暖かで、有益な時間の過ごし方があるだろうか。


P62
バーベキューか蒸し煮か。ローストかボイルか?どうやらそれが問題であり、わたしたちが自分を誰だと思うかは、その答えにかかっているらしい。火で直接焼くのに比べて、蒸し煮や煮込みは、自然を変化させる、より文明的な方法と言える。蒸し煮や湯煮は、肉に完全に火を通し、動物へ(さらには、わたしたち自身の中にある動物性)を完全に変容させるのだ。一方、火で焼いた場合、肉は原形を保ちやすく、血が残ることさえあり、それがかつて生きていた動物だということを否応なく思い出させる。しかし、残酷さが垣間見えることは必ずしも欠点ではない。それどころか、血が滴るステーキを食べれば精力が増すと信じる人もいる。「それを食べる人は誰でも雄牛のよ
うな力を身につける」とロラン・バルトは『現代社会の神話』で書いている。それに比べて、蒸し煮や煮込み-
特に角切りにした肉を何時間も鍋で煮込んだ料理-は、種どうしの残酷な相互作用を純化し、忘れさせる。
確かに、残酷さを忘れられるのは、日常生活においてメリットが大きい。いったい誰が、日々の生活において、生と死さらには人間の本質に関わる実存主義的問題に向き合いたいと思うだろう?それでも時にわたしたちは、そうしたいと、
薄っぺらな文明の下で何が起きているか
を知りたいと、思うものだ。おそらくそれは、あえて森でキャンプを張って不便さを楽しんだり、必要でもないのに狩りで肉を調達したり、トマトを育てたりしたくなるのと同じではないだろう
か。これらの行動はすべて、大人の娯楽の体裁をとるが、ただの楽しみではなく、わたしたちが何者であり、どこから来たか、自然のはたらきとはどのようなものか(そしておそらくは、男性性がまだ必要とされていた時代はどうだったか)、
を思い出すための、
儀式的な行動になっている。肉を火で焼くのはー裏庭で数枚のステーキを焼くバーベキューであれ、動物を丸ごと一頭、夜通し薪で焼くのであれ-、そうした儀式的行動の中でも最も心沸き立つものであり、一般に戸外で、特別な場面で、多くの人が見守る中、男性によって行われる。こうした料理は何を讃えてなされるのだろう。むろんそれはいろいろで、男性の力(狩りの成功という意味も含めて)を讃える場合もあれば、神への捧げ物という場合もある(この場合、パフォーマンスとしての料理には、人々を引き寄せる力もある)。しかし、何より讃えているのは、火で焼く料理の力そのものだろう。煙が立ちのぼる王国で木と炎と肉がひとつになるときほど、その力が輝かしく、ありありと感じられるときはないのだ。


P65
「〜する動物は人間だけだ」
この耳あたりのいいフレーズはこれまで何度となく使われてきたが、たいていは、後になって間違いだとわかった。ひとつ、またひとつと、科学は、人間だけの特徴だと思われていた能力が
ほかの動物にも備わっていることを明かしてきたのである。苦悩、理性、言語、計算、笑い、自意識-すべて、かつては人間の専売特許とされていたが、動物の脳と行動について科学の理解が進むと、そうではないことがわかった。ジェイムズ・ボズウェルの「料理をする動物は人間だけだ」という定義は、ほかの定義より長持ちしそうだが、「〜するのは人間だけだ、と定義したがる動物は人間だけだ」と言ったほうが、より確実だろう。


P202
ある文化で「いい匂い」とされているものが、ほかの文化では毛嫌いされることもある一例えばわたしが中国で食べた腐乳の匂いのように。味覚は生まれつきのもので、嗅覚は学んで習得するものであることは、両者を表現する言葉にも表れている。嗅覚は、「……のような匂い」というように、比喩で表現することが多いが、味覚はただ「甘い」「苦い」と表現し、喩えを必要としない。


P229
わたしたちはマルチタスキング(同時
に複数の仕事をすること)がかなりうまくなってきたのだ。それゆえに、時間の使い方を調べる作業は難しくなった。また、マルチタスキングへの流れは、料理にとっては不利になる。玉ネギを刻みながらEメールをチェックするのは、例えばオンラインショッピングをしながら食
べたりするより難しいからだ。しかし、なぜわたしたちはそれを料理の美徳と見なさないのだろう。
料理が衰退するにつれて増えてきたマルチタスキングのひとつは、「第二の食行動」と呼ばれる新たな行動様式だ。USDA(
米国農務省)の経済学者、カレン・S・ハムリックは、加工食品のおかげで自由になった時間でアメリカ人は何をしているかと尋ねられ、「食べることです。テレビを見ながら、運転しながら、服を着ながら、そのほか、何をしながらでも、彼らは食べています」と答えた。彼女の調査によると、アメリカ人は今では一日に七八分、第二の食行動を行っている、つまりほかのことをしながら飲んだり食べたりしているのだ。七八分は、「第一の食行動」ー
すなわち食事ーにあてる時間よりも長い。あまり料理をしないことが、より多く食べることにつながるとは誰が予想しただろう。だがそれがまさに起きているのだ。


P231
一九七〇年代以降、わたしたちはそれまでより一日あたり五〇〇キロカロリー多く摂取するようになった。その大半は、家の外で調理された食品(スナックやインスタント食品など)によるものだ。すなわちわたしたちは、自分で食事を作る必要がなくなるにつれて、より多く食べるようになったのだ。料理に費やす時間が半減する一方、食事の回数は増えた。一九七七年以降、わたしたちは一食の約半分に相当する量を以前よりよけいに食べるよう
になった。そのほとんどは、第二の食行動によるものだ。

P233
アメリカ人に食べる量を減らしてしてほしいのでしょう?ぴったりの方法がある。自分で料理するのです。食べたいものは何でも食べていい。ただし、自分で料理したものというのが条件です。


P235
キッチンで過ごす数時間、いつもの短気は薄れ、差し迫っているわけでもない作業に熱中する
ことができた。パソコンの画面の前でウイークデイを過ごした後、手を使うーー実際は五感のすべてを使うーー仕事は、料理でもガーデニングでも、いい気分転換になった。そのような仕事には、時間の経験を変える何かがあり、今ここに存在するという感覚を取り戻させる。それで仏教徒になるわけではないが、キッチンでは、少しばかり近づいているかもしれない。鍋をかき混ぜるときはただ、鍋をかき混ぜるのだ。わたしにはわかった。人生の大きなぜいたくのひとつは、一時にひとつのことだけを行い、それに全身全霊を集中させることなのだ。
マルチタスキングならぬ、ユニタスキングである。
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posted by わけい at 15:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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